日本の写真館開業155年

 日本の写真の開祖、下岡蓮杖が横浜に「全楽堂」を、上野彦馬が長崎に「上野撮影局」を文久2年(1862)に写真館を開業し150年になる。以来、写真館は人物を写すことによって、時代を記録し続けました。明治後期までは写真館の歴史が、そのまま日本の写真の歴史でした。
 初期の写真館は屋外写場で、写場の周囲を白幕で囲み人物の採光を工夫したが、湿板写真であるため露光時間は5~10秒は必要でした。やがて室内写場となると、北側の大きなガラス屋根からの自然光で撮影するようになりました。そして乾板写真にかわると露出は1秒以下となり、技術的には動的な人物写真が作れるようになりました。また明治時代までは、写真家は殆ど写真師と呼ばれていました。複雑な写真装置、今日とは違う大型カメラの駆使、現像やプリントの操作の困難さを克服する技術の持ち主が写真師と呼ばれていました。
 一方、伝統的に日本の写真界は営業写真師とは異質の、趣味やホビーとしての写真を愉しむ一群の写真家が存在していました。かれらはアマチュア写真団体を結成して、その存在を主張していました。
 その初期のものとして、榎本武揚を会長として、学者や華族、高級官僚らを中心に日本写真会が明治22年に生まれました。さらに文人、画家を集めた尾崎紅葉、鏑木清方らによる東京写友会などがあります。しかし写真史的に重要なのは、後に「東京写真研究会」に発展して行った明治37年(1904)にできた「ゆふづつ社」で、この主唱者は秋山轍輔、加藤精一等でした。かれらによってはじめて、写真に芸術的表現をもちこもうとする意欲が生じてきました。そうした動きは大正時代に入るとさらに活性化されました。
 因みに、熊谷では明治38・39年ごろに開催された写真の例会「もちより会」が大正3年頃には写真を研究する会として「埼玉写友会」と改称、会長に加藤謙二、理事に中村成一郎、町内の写真館主は顧問で参加しました。その後大正15年に「熊谷白陽写真会」の名称でアマチュア写真クラブが誕生しました。

参考 日本写真全集 

埼玉及び熊谷に於ける写真師の元祖

吉原秀雄 よしはらひでお(1848〜?) 写真師 武蔵国豊岡出身

 下岡蓮杖と上野彦馬が写真館を開業してから11年後の明治6年(1873年)、熊谷町一丁目塩屋の裏に他所から移転して来た吉原秀雄という人が、埼玉県で最初の写真館を開業したといわれています。当時写真を撮ると寿命が縮まるといわれ開業当初は営業不振であったが、徐々に撮る者が増え繁盛するようになりました。しかし吉原は明治20頃に熊谷を去り、東京で写真館を開業したと言われています。


 明治21年7月15日、福島県会津磐梯山が突然噴火し、いくつかの村が壊滅し、477人の犠牲者を出すという惨事となりました。日蓮宗の田中智学(1861-1939)に説き伏せられた吉原秀雄は、被災者たちの救済・復興のため7月20日に上野駅を立ち、磐梯山周辺に滞在して写真撮影を行い、7月29日に帰京すると8月上旬から各地で幻燈会を行いました。そして、その入場料と義捐金を罹災地に送ったと言われています。さらに読売新聞に「磐梯紀行」として30回にわたる連載を執筆しました(明治21年8月5日~10月6日)。当時写真の新聞紙上への製版は技術的に困難であったが、吉原は写真銅板という新技術を用いて写真を掲載しました。銅板写真の掲載は新聞史上初めてであったことから、読売新聞の読者数が増えたといわれています。
 吉原秀雄、浅草・神田・京橋・日本橋で磐梯山噴火写真幻燈会を開催。料金十銭


湿板写真 
中村米吉 妻志げ 明治10年頃
撮影 熊谷吉原写真館 吉原秀雄 

 1851年、湿板写真法がフレデリック・スコット・アーチャーによって発明されました。これはガラス板にコロジオンという液体を塗布し、この感光膜が湿った状態で撮影する方法で露光時間は5~10秒必要でした。湿板では美麗な調子のネガのガラス原板が得られ、後ろに黒布、黒紙等をおくとポジ像にかわるため、そのまま額縁にして桐箱に収めたものを現在でもみることができます。

武州熊谷 諸星製<早撮寫真師>

明治時代初期は湿板写真であるため露光時間は5~10秒は必要でした。やがて明治21年頃からは、乾板写真にかわると露出は1秒以下となり早撮寫真師と呼ばれた。



中村尚次、鶴子他 明治23年

明治23年撮影

熊谷明神大門 小原製

高城神社前の小原写真館で、後に小暮写真館となる



三浦真琴 明治32年

中村鶴子、一郎 明治32年頃

武州熊谷 寫真師増田製

増田写真館は、竹町の星川沿いにあり、昭和10年代初めに廃業



小宮鶴子 明治37年

中村尚次 明治40年

中沢麗泉 なかざわれいせん(本名一策) 

 中澤麗泉は明治中期頃から熊谷仲町に真雅堂写真館を開業した写真師です。明治35年 10月28日発行の「さいたま営業便覚」に県内の写真師として、熊谷町熊谷寺門前の中沢一策(麗泉)が紹介されています。麗泉は「田舎教師」の3人のモデルになった小林秀三、萩原喜三郎、新島百介を撮った写真師でもあります。
 明治42年11月9日に中澤麗泉及び中村成一郎によって県下最初の写真品評会が開催された。明治42年11月11日付の国民新聞埼玉版は「埼玉県写真品評会去る9日午前10時より大里郡熊谷町写真師真雅堂中沢麗泉、中村成一郎の諸氏発起人となり土地の好事家より有志を募り、同町中沢写真館内に斬新意匠の写真類を収集し品評会を開きたり(中略)写真会の品評会は本県にては之を嚆矢となす由、出品数は30点ばかり」と記されています。作品の出品者は、「もちより会」の会員であると考えられている。
 因みに「もちより会」とは熊谷で明治38・39年ごろに開催された写真の例会であり、会員は加藤謙二、新井良作、西村徳次郎、今井常四郎、大谷源造などでした。そして東京では明治26年には「大日本写真品評会」が小川一眞、鹿島清兵衛らによって創立されています。

参考 熊谷人物辞典 熊谷の写真

明治を代表する写真師

小川一眞 おがわ かずまさ (1860-1929)  武蔵国行田出身
日本における写真業並びに写真出版業の先覚者

小川一眞は、熊谷の写真師、吉原秀雄の下で湿板法を学んだのち、明治10年(1877)、群馬県富岡町に写場を開いて独立をしました。



リンク

小川 一眞が紹介されていますーー小川一眞年表

撮影 真雅堂 中澤麗泉撮影


鯨井照正、中村成一郎 明治39年


林俊 明治39年 林有章 明治40年

竹井 澹如
小川一眞撮影

明治40年 中澤麗泉複製

中澤麗泉の真雅堂は、大正時代中期に中村写真館支店のさくら写真館となった

熊谷出身初の写真師、中村成一郎



 中村写真館主成一郎は本町4丁目で明治18年11月2日に生まれ、父の見解でわずか3才で家督を相続し、若輩ながら10歳頃から熊谷の多様な役職に名を連ね、先祖に倣い多方面で熊谷のために貢献していた。旧制熊谷中学を卒業した成一郎は、熊谷町写真師真雅堂中沢麗泉と熊谷町竹町増田写真館主に師事、写真技術を習得した。明治38年頃から本格的に撮影を始め、主に屋外の出張撮影を手掛け、時には真雅堂と増田写真館のスタジオを借用する事もあった。

 県下最初の埼玉県写真品評会の発起人となり熊谷の写真の発展に貢献した。写真品評会の出品者は、明治38、9年頃の「持ち寄り会」と称す例会の人たちと云われている。成一郎は地元アマチュア写真家の草分けで、「埼玉写友会」、「白陽写真会」と深く関わり影響を与えた。成一郎は父平七の俳句の号で中村夕雨(セキウ)を写真の号で使用し数多くの作品を撮影した。明治41年には「中家堂本舗」を引継ぎ、そしてついに写真の趣味がこうじて、大正3年富士見町(現星川)に移り「中村写真館」を開業した。

中村成一郎

明治40年 中島亭 明治の結納記念

後列:佐藤虹二、中村成一郎   前列:大石敏郎、長野秋喜
白陽会メンバーと成一郎

 

東京写真研究会 第2回展覧会
(明治42年5月14日~16日赤坂溜池三會堂)

日本で初めて写真に芸術的表現をもち込んだ写真団体で、中澤麗泉及び 中村成一郎が第2回品評会に出品しました。後、中澤麗泉及び中村成一郎は明治42年11月9日に開催された埼玉写真品評会の発起人となりました。

東京写真研究会 第1回展覧会(品評会から展覧会に変更)
(明治43年3月5日~3月30日 上野公園竹ノ臺陳列館)

作者

タイトル

印画紙

サイズ

中澤麗泉

野邊の黄昏

アロータイプ

カビネ


恍     惚 

四ッ切 


山地の偉橋

カビネ

研     究

カビネ 

 

 

 

 

中村成一郎

鑑   賞

アロータイプ

 四ッ切

秋の山路

ネ  ぺ  ラ

カビネ

肖   像

アロータイプ

四ッ切

家   路

カビネ

水くるま アリスト白金紙 カビネ

中家堂本舗の中庭で講師前川鎌三氏を囲んでの記念写真

第2回埼玉写真研究会は、明治43年1月20日~23日に中家堂本舗にて開催された。1月23日に講師前川鎌三氏の「閃光写真撮影」の講習が開催された。

桜雲閣前で審査員の久野轍輔氏を囲んでの記念写真

第3回埼玉写真研究会は、明治43年5月頃桜雲閣で開催された。新作印画100余点と小西本店参考印画 30余点を陳列する。審査講話は久野轍輔氏。1等中村夕雨、2等石坂都栄、以下13名受賞・・・・・・とある。